突然だが、私はVTuberに並々ならぬ憧れを抱いている。
VTuberに限った話ではなく、所謂「偶像崇拝」の対象になり得るものに対しての憧憬が強い。
非常に個人的な話になってしまって申し訳ないが、今回は私の「なぜVTuberに憧れるのか?」、その理由をここに記させていただきたい。
誇大な自己評価
元来、自分は世界で一番可愛く、崇拝されて然るべき存在なんだとごく自然に思って生まれてきた。
己はこの世界のお姫様で、誰も彼もが蝶よ花よと扱ってくれることが当たり前。それがこの世界の一番自然な姿だと疑う余地もなかったのだ。
私は非常に夢想的な子供で、周りに誰がいようが自分の世界を作り出してはひとり没入して勝手に遊んでおり、友達といようが急に空想の存在と話し始めたり、別の人格を演出し始めたり、今にして考えれば非常に扱いづらい子供だったであろう。
あまりの地に足のついてなさに、周囲の大人からしばしば心配されたものだ。
それでも私は、それのなにが悪いのか全く理解が出来ず、より自分の(都合の良い)世界にぐんぐんと潜り込んでいった。
だが、現実はそんなに甘くない。
浮かれポンチな時代も長くは続かず、まもなく人生1度目の挫折を味わうこととなる。
幼少の人間にとっての初の社交界デビュー、幼稚園入園である。
年少の頃はよかった。2歳、3歳ほどの人間というのはまだほとんど赤子である。
周囲の人間の事情より、自分とママとお気に入りのぬいぐるみが世界の中心で、友達ができてもおおよそ社会的な会話などしない。
問題は年中以降である。
女児というのは非常に精神的発育がよく、いち早くコミュニティづくりの重要性に気がつく。
そうなってくると、今まで完全に別個体であった人間たちを架空の壇上に上げ、比較し始めるのだ。
そうしてついた優劣は、まるで加湿器をつけた室内のように、柔らかく空間を湿らせて、やがて「共通認識」へと変わっていく。
ここでの最大の悲劇は、私が自分で思っているより随分可愛くなかったことである。
夢想的で奔放であった幼少の私は、幼いコミュニティの中でも目立つ存在であったらしく、早い段階で壇上に上げられ、精査された。
そこで下った審判というのが「そうでもない」というものだったのだ。
いや、「そうでもない」程度ならまだ良い方であろう。何が挫折だこんにゃろめ。
と思う諸兄もいるだろうが、幼少の私はとにかく「一番」でないと気がすまず、そして「そうでもない」程度の評価しか受けられないことが許せなかったのだ。
日々与えられる評価にじわじわと落胆していき、私は遂に挫折した。
これが大人になるということか。
今までの思い込みが幻想であったと思い知った。
それからというもの、お姫様よろしく振る舞っていた態度を改め、慎ましく「一般市民」として生きていこうと努力を続けた。
持って生まれた素質なのか、私は変に生真面目なところがあり「己は特別な存在ではない」「でしゃばってはいけない」と己を律していた。
それでも生まれてから今まで温室でぬくぬくと培養され続けた自意識を付け焼き刃な努力が完封できるわけもなく、「己は特別な存在ではない」という思いと「絶対に特別であるべきだ」という思いの間で葛藤を続けることになる。
挫折する自意識
まだ小さな体に悶々とした苦悩を抱えながら無事卒園、小学校入学。
幼稚園よりも高いステージのコミュニティ争いが繰り広げられるこの地で、私の苦悩をより深める事件に見舞われる。
それが、容姿を理由にした「いじめ」である。
きっかけは些細なことだったのだろう。
私は己がなぜ槍玉に挙げられていたのか未だにわからないのだが、同級生の女子たち曰く「ブスのくせにかわいこぶっている」とのことであった。
今まで「そうでもない」程度のダメージで済んでいたものが、こうもはっきり言われてしまうともう立つ瀬がないのである。
私はそれまでの「かわいい私」という幻想から離れようと、大好きなピンク色もスカートも封印、好きな色は青、ジーパンは楽だからいい、と大幅な方向転換を図った。
しかし、孤軍奮闘な努力も虚しく、そのほのかないじめは毎年相手が交代しながら私が高校を卒業するまで続いた。
(これは逆に快挙なのでは?と今は思っている。)
「ブスのくせにかわいこぶっている」ならかわいこぶらなければいい。
そう思って、女の子らしい振る舞いなどはなるべく避けたが、やはり魂は「かわいい」が好きで「自分という存在はかわいくあるべきである」と強く訴えかけ続けた。
ぶりっこアイドルを盲信し、女の子らしいキャラクターに自己投影しては、挫折した幼い自分を慰めていた。
押し殺そうとしていたものの、結局はなにも意味がなかった。
根底の願望には何一つ太刀打ちできず、苦悶の日々は続いた。
「VTuber」との出会い
高校の卒業をきっかけに、私は「かわいいを諦めること」を辞めた。
学校という閉じたコミュニティを這い出たことにより、周囲の不必要な目線を気にする必要がなくなった。
「これでやっと自分らしく生きていける」と、重いコートを脱ぎ捨てたような開放感と、言いしれぬ全能感と共にあった。
だが、人間の脳とは恐ろしいもので、約12年間ほど刷り込まれ続けた「ブスのくせに」という呪詛が私を開放してくれることはなかった。
学生時代よりは多少マシにはなったもの、やはり自分の容姿への強いコンプレックスは拭いきれず、夜な夜な寝床でもんどりうつ日々を過ごしている。
そんな日々の中、「バーチャルユーチューバー」なるものが誕生したことを知った。
バーチャルの姿で、様々な企画に挑戦する。
美しいことが約束された容姿で、画面の中を奔放に動き回るその姿に、完全に心を奪われてしまった。
私が存在するべきはこの世界なのではないか?と思った。
結局の所私は、自分の容姿に「ブス」という烙印をされたことより、押された烙印を気にして自分の思うままに振る舞えないことが苦しかったのだ。
私はオシャレもしたいし、思ったことはそのまま口にしたいし、女の子らしい身振り手振りで純粋にかわいく存在したかった。
それが、バーチャルの世界なら叶うかもしれない。
少なくとも、容姿を理由に行動を揶揄されることはない。
どうしようもなく人間である生身の体を捨てて、早くバーチャルの存在になりたいと強く思った。
バーチャルであることの意味
SNSが発展し、一般人が容姿を全世界に公開するのが当たり前になっている時代。
より多くの人間たちに不必要な比較をされ、理不尽な言葉を投げかけられることも日常茶飯事である昨今において、バーチャルの肉体を得るというのは新しい救いの形なのではないだろうか。
作り物の肉体では、本意ではない欠陥は存在しない。
もし見た目を他者に批判されようが、それは受け手の趣味に完全に帰属するので、まったく傷つく必要がない。
容姿の良し悪しから開放され、遂にその人らしく振る舞えるのではなかろうか。
生まれ持った性別が自認している性別と違う人など、思い描いた自分とのギャップを抱え、孤独に苦しんでいる人は数多く存在するであろう。
「VTuber」はそういった人々にとっての希望の光にもなり得るのではなかろうか。
そういった新しい灯火としても、VTuberには期待せざるを得ない。
新しい人生選択の一つとして、「バーチャルに存在する」ということが広く認知される社会を願ってやまない。